2012年4月3日火曜日

一切れのパン3


「脱走者かい」

私は、肯定の印に頷いた。

「それなら早くここから逃げろ。昨夜ここで、君の仲間らしいのが二人、捕まって銃殺された。一人は赤い縞のワイシャツを着ていたよ」
「あの職人だ。彼らと一緒に行かなくて良かった」

私の足は震え始めた。

「分かった、行くよ」

と、私はやっとの事で声にならない声を出した。

「でも、何か食べ物をくれないか」
「ここには何にも持っていない」

今でも私は、その時すぐに逃げ出さないで粘った事に驚きを感じる。

「ここで君を待っているから、番小屋から何か持ってきてくれ。もういつから食べていないか分らないんだ」
「それが持って来られないんだよ。番小屋には兵隊が二人、泊り込みで見張りをしている。早く 逃げろ、酷い目に遭いたくなかったら」

私は、もうなるようになれといった捨て鉢な気になった。

「それじゃせめて、ここはどこなのか教えてくれないか」
「エステルゴム(ハンガリー北部、チェコとの国境に近い都市)の近くだ。しかし、町は避けた方がいい。ドイツ兵で一杯だから。退却しているんだ」


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私は、左手の林が広がっている方へ向かった。
悔しさに涙が溢れてきた。
二十歳になったかりなのに、まるでドブネズミのように飢え死にしなければならないのか。
太陽は酷く照り付けた。
まるで、私に腹を立てているかのようだった。
私は汗だくになった。
そして、体から次第に力が抜けて行くのを感じた。
私は座り込んで、もう二度と立ち上がるまいと思ったが、自分自身に皮肉に問い掛けた。

「どうせ死ぬなら、どうして木陰で死なないんだ」

林に着くと、私はラビからもらったパンの包みをポケットから取り出した。
ハンカチ包みを目にした途端、私の胃は引きつり、私は熱病患者のように喘いだ。
もしこ� ��パンを持っていなかったら、と私は考えた。
到底ここまでも辿り着けなかったろう。
飢えに突き動かされて、兵士たちに食べ物を乞いに行ったかも知れない。
そして、あの職人のように銃殺されたかも知れない。
そうならなかったと誰が言えよう。

「いや、このパンを今食べてはならない。今はこのパン切れだけが、まだ俺に力を与えてくれる唯一の物だ。立ち上がって歩き出さなければならない。ここで時間を無駄にしては何の意味もない」


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私は再び包みをしまい込んだ。
歩きながらも、そこに確かにあるかどうか、私はポケットの上から押えてみた。
時々、私には、全てが夢にすぎず、間もなく私は艀の上で目を覚ますのではなかろうか、と思われた。
数時間歩き続けた後、私は森の外れに農家を一軒見出した。
数分の後には、この苦難の道も終るものと確信して、私は農家に近付いた。
そして、まさに呼び掛けようとした時、木陰に軍用トラックが数台止っているのに気が付いた。
私は、歯を食いしばって、ポケットのパン切れを押えながら農場から遠ざかった。
夕暮れに、私は広い国道の真ん中に立っていた。
もうどうなってもいいと思っていた。
今とな� �ては万事同じだ。
私はポケットからハンカチ包みを引っ張り出して、食べようと決心した。
もう、私を引き止める力は何もなかった。
そして、ハンカチの結び目を解きに掛かった時、私の後ろで耳に突き刺さるような警笛が聞こえた。
振り返ると、一台の乗用車が向かって来ていた。
私は、慌てて包みをポケットに押し込むと、手を大きく振った。
自動車を止らせようとしたのだ。
すると、自動車は思った通りに私の近くで停車した。
運転台には、ドイツ兵が一人乗っていた。

「いや、これはしまった事をした」

私は、自分の気持ちを落ち着かせながら自動車に近付いた。
自分でも不思議に思えたほど、私はもう恐怖を感じなかった。

「私はブダベストの水運会社の水夫です」


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と言いながら、彼に水夫の証明書を示した。

「ブダベストまで行きたいのです」

すると、彼は私に乗れと手で合図した。
運転台の横に腰掛けて、私は暫く飢えを忘れた。
が、間もなく、胃は再び激しく引きつり始めた。
私は必死にそれに耐えた。
私が飢えている事に、兵士が気付いてはならない。
少しでも怪しまれたら万事休すだ。
私は、眠りに落ちないようにと、全身の力を振り絞った。
ブダベストに着いた時には、もう夜が白み始めていた。
私は、市の中心街で降ろしてくれと頼んだ。
運転手は車を止め、私は彼に礼を言って家路に向かった。
通りの真ん中でパンを引っ張り出すのは恥ずかしかった。
何故か� ��らないが、同じ食べていても、飢えた人間は、そうでない人間より人の目に付き易いような気がする。
ポケットのパン切れを上から押えながら、私は心の中でラビに感謝した。
結局は彼のお陰で私は助かったのだ。
もしこの一切れのパンを持っていなかったら、私はどんな事をしでかしたか知れない....。
家の近くで、私は巡察兵に呼び止められた。
私は一気に血が顔に上って来るのを感じた。
吃らないように、私はしっかり歯を食いしばった。

「身分証明書」

と、体の大きい下士官が私に命令した。
私は水夫の証明書を出して、彼の前に差し出しながら言った。

「マトローズ(ハンガリー語で"水夫")」

下士官は、ドイツ語の証明書をぱらぱらめくってから、他の巡察兵に向かって言った。

「なんだ、こりゃドイツ人じゃないか」

余計な事を彼にしゃべらなかったのは幸いだった。
私は、さっとドイツ式の敬礼をして立ち去った。
やっと家に辿り着いた時、私はもう妻の質問に答える元気もなかった。
長椅子に崩れ落ちるように横になったが、眠れもしない。
料理の匂いが鼻をくすぐる。
私は、あのユダヤ人のラビからもらったパンを思い出して、ポケットからハンカチの包みを引っ張り出し、微笑しながら包みを解いた。

「これが僕を救ったんだよ....」
「まあ、その汚らしいハンカチが?何がその中に入ってるの」
「パン一切れさ」

突然、部屋全体が私と一緒にくるくると回転し始めた。
ハンカチからぽろりと床に落ちた一片の木切� �以外には、もう何にも私の目に入らなかった。

「ありがとう、ラビ」

「一切れのパン」 F・ムンテヤーヌ著 / 直野 敦訳

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